昭和41年10月31日 朝の御理解
どんなに良いお御馳走の材料がありましても、それで味の付け方如何で、その食物が美味しくもなりゃ、美味しくもないことになる。例えば、お野菜なら、お野菜を煮付けるでも、そのお野菜そのものは、見事に出来ておりましても、その味の付け方で、そのお野菜が美味しいということが決まるんです。おかげを皆さんが頂きましても、そのおかげの味わいというものが、結局その味付けひとつで決まるのですから、そこんところを頂いていかなければいけません。
同じおかげを頂きましても、甲の人の場合は味わいのあるもの、乙の人の場合は味気の無いもの。私、今朝、御神前に出て頂きますことが、皆さんはあの、他所の教会の御大際を拝んでない方は知らないと思うですけれども、神撰ものを致しますね。お供え物を致しますと、一番最後に水玉というのが出ます。塩と水を、お水を丸い器に盛って、それから皿に塩をこうピラミット型に盛りましてね、盛り塩という。
そしてまた、ひとつの三宝に一番最後に出ます。それこそ海、山、川根のくさぐさのものを、真心をもってお供えいたします。けれども、一番最後のその水と塩で、神様、どうぞよろしゅう、味を付けてください、という意味だそうです。椛目では、まだ水やら塩やらというのは、お供えしたことは御座いませんけれども、これはひとつの、神道からきた、形式で御座しましょうけれど。こりゃ仲々ひとつの行き届いた考え方から、そういうことがなされるのでしょうね。
魚だけ、ぽんとお供えしても、お野菜だけ、ちょっとお供えしても、味なしじゃ食べられん。だから、どうぞ味は具合良う付けて下さいというのが、あの塩やら水の供えをするのが、それだと、云われております。神様が喜んで頂く、例えばどんなに私共が、山海の珍味といったような、おかげを頂きましてもです、私共の味の付け方ひとつで、それが決まるのです。有難い、有難くないというものに。その水玉と盛り塩のこと頂きましてから、私は、今朝の御理解を頂いております。
どうぞ、皆さん、その水と塩ということは、どういうおかげにね、例えば、ほんなら同じおかげ頂くといたしましょうかね。どうぞ壱万円の金銭の、お繰り合せを頂きたいと思うとるから、壱万円の金銭のお繰り合せを願われる。甲の人も、乙の人も頂いておる。ところが、片一方のには、味が付けてある、片一方のには味が付けてないということで、決まるのです。その、だけならよいですけれども、そこに、例えば有難いの度合いというものが違うてくる。
味わいの度合いというものが違うてくる。その有難いが次の今度はおかげが決まって来るのですから。ですからどうしてもその折角頂くおかげであるならばそこには味の整うたおかげにしていかなければならん為にですね。私共がおかげを蒙っていかなきゃいけん。私が頂いております御教えの中に、貰うた水には限りがある、湧き出るまでが信心辛抱といったようなカレンダ―が何日目ですか、そんなのが御座いますでしょう。
どうぞ、お願いしますと云うて、貰い水をしたのは、水そのものには変わりはないけれども、全然、それには骨が折れていない、手がかけられていない。而もそれは、もう限りがあるのだと、貰い水には。どうぞ、お願いしますと云うて、頂くおかげというものは、そんなもの。けども、湧き出るまでが信心辛抱。もう自ずと湧き出てくる、限りなく頂かれるおかげ、同じ水でも違うでしょう。お互いがここんところを、いわば、稽古さして頂いておるのですね。
おかげでも、どうぞ、どうぞ、と云うて、神様にご無理を申し上げたおかげと。頼まんでも、願わんでも、ふっとこう湧いてくるように、現れてくるおかげとあるんですよ。ちょうど、夕べ、若先生の友達が来てましてね。お茶を出すように、もう御祈念が済んでからでした、してるんです。それで、お茶を出して羊羹どん切ってその、したところが、若いもんばっかりですから、中学時代の友達らしいんです。
コ―ヒ―の方がいい、ならコ―ヒ―に又合うたお菓子出さにゃいかんからと云うてまあ、折角用意してあるのを、丁度その三人ですから、三人分してある。私、裏にまいりましたら、あの三人分してある。もう時間がちょっとたってからでしたから、もう久保山先生、いつも帰られるんです、帰っとられるんです。あら、こりゃ羊羹切っちゃる。久保山先生御座るか、表、ちょっと探してみれ、ち云うたら、まだおられた。
繁雄さんと久保山先生と。私、そん時まあその思いもし、まあ久保山先生に云うたんです。夕べの御理解が許されてということでしたですね。例えば、皆さんがこうやって、お参りをしておるというけれども。自分が参ってきたというのじゃなくて、許されて参って来ておるんだということ。御祈念をさして頂いておるんだけれどもね、許されて御祈念をさして頂いておるんだと。
例えば朝の御祈念にこうやってお参りをする。少しは眠たいけれど辛抱して参ってくる。それでも許されたから許されておるから参る。身体に調子が悪かったり寝忘れたりしたら、結局お参りが出来ないでしょう。今日は許されないそれが二日続く、三日続くそれがもう何とも感じんようになる、こわい。許されなくなってくる、それだけ許されなくなってくるならよいけれども、食べる事すら許されなくなったらどうなる。
寝ることさえ許されなくなったらどうなる、歩くことすら許されなくなったらどうなる、大変なことでしょうが。食べておるという事でもです、これは許されて食べておるんですよ、皆さん。本当、いっちょん食べごつなか、味が無か、というても、例えば、ほんなら、一椀の御飯でも、いけておるというのは、一椀の御飯を許されておるのである。けれども、もう食欲が無くなったと、段々少なくなっていきよるということは、もう許される度合いが少なくなっていきよるとです。
だからそれが講じたら、もう食べられないということになる。許されない。どんなに食べよう、どんなに食べようと思うても、さあ一合の米が、ままにならない。いや米は余るほど積んでおりましてもです、食道ガンなら食道ガンという病気を患うたら許されないです、食べられないでしょう。目の前に、おご馳走、山海の珍味を見ておりましても、それを頂くことは出来ませんものね。
ですから、もう本当に皆さん、例えば一椀の御飯でも美味しう頂ける時には、はあ許されて、もう許されとる証拠に、こんなに美味しい。許されとるおかげで、頂いておるというところにです。私が食べよるとじゃない、食べさして頂きよるんだというところに、有難いと云うものが必ず伴うということ。その有難いというのが、信心頂いていく者でなからなきゃ分からんのだ。許されて参らして頂いておる。
それで私が、夕べ、久保山先生、これこそほんと許されて頂きよるとですばい、と云うてから、まあ羊羹とお茶を上げたんです。丁度、そこにおられる人の人数だけ切ってある。而も、それが向こうに出そうと思うても、向こうが不要になっておる。誰かが頂かにゃならん、そこで繁雄さんと、久富先生じゃない、久保山先生と、いわば、本当にその羊羹の好きな人がそこにおる。自分は好きだからというてから、まあ、こっそりと食べなさる筈もなかろうけど。こっそりと食べたりするなら、どうでしょう。
同じ好きであっても、こうやって、ほうばったごとして食べてからですよ、果たしてそれが美味しいじゃろうか。人から見つけられどんするなら、とても可笑しか。許されんなり、食べよるとじゃん。だからその、それは羊羹の味はしよろばってん、それじゃ本当の美味しさは無かろうと私は思う。許されてお茶でも伴うて、それに羊羹にお茶でもついて、さあこりゃ、これこそこりゃ久富さんのっですばい、こりゃ久保山先生あなたですばいと云うてから頂く時に。
神様頂きますと云うてから、頂く時の、味わいというものは格別でしょうが。私共がですたいね、それこそ、こっそりと頂くようなことをしておるようなことはなかろうか、いろんなおかげの上にも。それも、姑息じゃなくてもです、無理を云うてから、どうぞどうぞ、良い顔して下さいと云うて、もう、いうなら無理を云うてから頂きよるようなことはなかろうかということなんですよ。
じゃなくてこれは、誰々さんのためにというてから、その羊羹だけじゃない良いお茶までそこに添えてから、頂かしてもらう時こそ許されて頂きよるとです。ですからそこにです、その羊羹なら羊羹、お茶ならお茶の味わいは又格別なんです。だからそういうおかげの頂けれるためにです、私共が修業しておかなければならんということ。もう一事が万事にそうなんです。味のついたおかげでなからなきゃいかん。お水はお恵みと仰る。そのお恵みを受けるためには塩、塩というのはこれは修業ということ。
矢っ張り、頂かなきゃならんと思う。そのお恵みの水を頂けれるために、それに引き当てになるところの、塩の修業が出来さして貰うて、始めて、私は、良い味わいというものが、つくのじゃないかとこう思う。それには例えば、昨夜から頂きますように、許されてお参りをしている、ということにひとつ、本当に有り難みが感じられる。今日も許されてお参りが出来ておる自分だと。お参りしたい、お参りしたいと思いよるけれども、どうも目が覚めん。
お参りしたい、お参りしたいと思いよるけれども頭が痛い。お参りしたい、お参りしたいと思いよるけれども、何かの事情が出来てお参りが出来ない。許されないのですから、本当にここにひとつ考えなきゃならないことがあるのです。けども、それではです、それが癖になって、いわば、しとると、それが堕落になってしまう。参らんとまた、許されんとが、許されんとして、気付かんようんなる。そこには私はですね、例えば、金を持つことを許されない、食べることを許されない、動くことを許されない、眠ることすらも許されないというような事になったんでは、いけんじゃないかと。
そこで、私共絶えず塩の修業。お恵みは、いわば、天から降るようにあっておる。それを、私共が大地にひれ伏したような信心修業によって、降るようなおかげを頂き止めるというおかげを頂かなければならん。そこに私は辛抱が必要である。眠たい、眠たいから寝たほうがいいけれどもです。そこに眠たいけども無理をしてでも、願ってでも、すがってでも、そこんところを起きて、お参りをさせて頂くことによって、矢っ張り、許されてお参りが出来たということになるのである。お参りが出来ない。
許されない。お参りをすることを許されない。もうそれだけなら良いけれどもね、あれもこれも許されないということになったら大変なんだ。本当に眠っておることだって、自分が眠ろうとして眠れるんじゃない、眠ろうと思うても、眠ろうと思うても、いよいよ目が覚めて眠られんという人もある。食べたいけれども食べられんという人もある、というようにですね。それが許されなかったら食べることも、眠ることすらも出来んのですから。ここんところの修業が出来さして貰うてです。
おかげはそれこそ、降るようにあっておる、そのお恵みの、お水を受け止めさせて貰うていくというような信心が、私共が頂くおかげに味を付けるおかげというのじゃなかろうか。ただ修業も出来ずに、どうぞお願いします。改まりもせずに、どうぞお願いします。研きもせずに、どうぞお願いしますと云うて頂いた、頂くおかげ。成程、それは無理を云や頂けもしましょう。
例えば、今、羊羹の話が出ましたから、はあ久保山先生、羊羹が、丁度ここにございます、ちょっと羊羹を召し上がれと。さあお茶をどうぞと、これは許されてるのである。例えば、久保山先生が好きですもん、そんなことを言われることも無いですけれどもです。先生、今夜、羊羹ば一人で食べさせて下さい、まぁ言いや、ほんなら、あれば、いやとは言わんでしょうね、私が。けれども、そんなら、久保山先生も、言やその、いわば、そんなこと言うこと嫌でしょう
。私としても、なら出す時に、ま、どうした、きたなか人じゃろかと思うでしょう。私は神様に、ご無理を云うて頂くおかげちやそんなもんだと。いわば、それには限りがあるのです。余裕が出てから、いわば、上げるおかげと言うのは、頂くおかげというのは、限りがあるのです。湧き出るまでが信心辛抱なんです。それは、絶えず、ちゃんとその人の為に、その人に必要なものが準備してある。もう前から、ちょっとこう、その人のために準備がしてあるというようなおかげ。
湧き出るようなおかげ、そういうおかげを頂くために私共がです、本当に、昨夜から頂きます、許されてということの信心がですね。信心修業がなされなきゃならん。それは、成程気持ようくお参りが出来る。こりゃもう許されておるのですけれども、場合には、はあ今日段、いっちょ御無礼しょうごたるという時もありますけれども。そういう時を大事にです、お参りさして頂くということ、お参りだけのことじゃありませんけれども。そこが、私は辛抱だと思う。そこが修業だと思う。
そこに、今日も許されてお参りが出来てよかったという、その、そういうのが私はおかげ、そういう修業の伴うたところの私はおかげを、神様は、いわば、そういう、おかげを求めておられるのじゃなかろうかと。どんなに、さあこれが活鯛でございます、これがなら見事な果実でございます、野菜でございますと云うてもです。矢っ張り最後に塩と水で味を付けて頂く、その塩と水の、矢張り、おかげを頂かなければならん。それで神様も喜んで下さる、良い味わいとして受けて下さる。そこで私共も又、良い味わいとしての、おかげを受けることが出来るという風に思うですね。
どうぞ。